イギリスの哲学者、ジョージ・オーウェルの、アンチユートピア小説(もしくはディストピア小説とも呼ばれる)。
本書と、ザミャーチンの「われら」、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」の三作が、「三大アンチユートピア小説」と称されている。
舞台は世界大戦後に世界が大きく3つの巨大国家(南北アメリカとイギリスで構成されるオセアニア、ヨーロッパ・ロシアで
構成されるユーラシア、アジアで構成されるイースタシア)に分割された社会における、オセアニアに属する旧イギリス(1949年当時に予想した、1984年の世界)。INGSOC(English Socialism=イギリス社会主義)の支配する荒廃した世界で、主人公ウィンストン・スミスが、言論や思想、職業、衣服、住居、経済、性など社会のあらゆることに対して、全体主義的統制のとられた世界で、社会のなりたちに疑問を感じ、「日記を書く」という反社会的行為を通して、ささやかな抵抗をこころみるが、思想犯としてとらえられ、拷問の末に、なにごとも考える事のできない廃人として、釈放される。
この作品の中で、特筆すべきは、国家を司る、党(INGSOC)の、
「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」という3つのスローガンの存在である。
「戦争は平和である」の意味とは、人類の歴史は常に戦争の繰り返しであり、そのなかにおける平和とは戦争の準備期間にすぎない。
世界が3つの巨大国家に集約されたこの世界においては、3カ国がお互いに和合しあう、偽りの、容易に瓦解する平和を選ぶよりも、
3カ国がお互いに、均衡した力で、戦争を続けることこそが、真の意味での「平和」であるとする思想。
その際の一般市民は、すべて、兵員もしくは兵器製造要員であり、永遠に続く戦争と永遠に続く需要によって、盲目的にひたすら機械のように働き続けることを強制されるのだが、生産された兵器は、国境の境界線上における終わりのない、終わることを目的としていない戦闘行為に空費されていく。勝敗を決するための戦争ではなく、戦争そのものが目的なのである。
そのことを知っていいるのは、党の上層部の一握りの人間のみであり、そこに支配の構図がある。人々はただ経済を動かすためだけにひたすらに無意味な労働を強いられている。
「自由は屈従である」の意味とは、人間は一人だけ、一個の存在であれば常に失敗や敗北をあじわうが、自己を脱却し、自分の存在が「党」という集合体であるということになれば、そこにはもはや個は存在せず、無限の可能性をもった、全能の存在となり得、そこにはじめて、真の意味での自由があるという思想。
「無知は力である」の意味とは、前述の2つのスローガンにも言えることであるが、思考する力を持たないこと、知ることができないことは結果的に、
迷いや反感を生み出す土壌を持たないがために、無知であることが美徳であり、力であるとする思想。
そのことを実践するために党の統制下では、新語法(ニュースピーク)と呼ばれる、異端の思想をすることができないようにするために人為的に
作られた簡略英語を使うことが義務づけられている。
これは、文字の意味、文法の必要以上の簡略化と単語の同意語の排除、単語そのものの省略、意味の排除によって、ものごとを考える力を失わせることに目的がある。
簡単な例で言えば、党の名称、INGSOCは、もとの意味でいえば、English Socialism=イギリス社会主義であり、そのままの意味では、当然社会主義を連想させるが、
はじめから、INGSOCという名称のみであれば、そこにまつわる意味は想起されないというしくみである。
これを数世代にわたって続けることによって、人々はものごとを考える力を徐々に失っていき、当然、党に反抗する力をも失っていくというものである。
この小説は、当時のロシアをはじめとする社会主義思想にたいする風刺と痛烈な批判であるが、それだけにとどまらず、その後のアンチユートピア小説や映像作品などに多大な影響を与えている。
AKIRAの作者として有名な大友克洋の劇場アニメ作品「MEMORIES」に含まれる、「大砲の街」という作品などはその際たる例であると言える。
また、この小説は、「1984」というタイトルで映画化もされており、ダイジェスト的構成ながらも、党の集会で群衆が、敵国指導者(党の設定した、そもそも架空の敵)の名を叫び罵倒するシーンなどが印象深く、ダイジェスト的構成ながらも、世界観をよく表現した秀逸な出来であると感じる。
原題:「Nineteen Eighty-Four 」1949
著者:ジョージ・オーウェル(1903-1950)
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