詩人サミュエル・バトラーの描いたユートピア物語。
舞台は十九世紀、とあるイギリスの植民地における人跡未踏の架空国家を訪れた主人公の見聞録。
表題の「エレホン」は「erewhon」と綴り、英語の「no where」を逆に読んだ造語である。
「no where」つまり「どこでもない」土地という名称は、十六世紀イギリスの作家、トマス・モアの著作「ユートピア」が、ラテン語の「どこにもない場所」という意味を持つ造語であることから、この物語が架空の理想国家を描いたユートピア文学の一つであることがみてとれる。
ユートピア文学は架空の国家における政治形態、社会のなりたち、文化や性にまつわる解説がその物語の大半をしめる場合が多く、この「エレホン」もその例にもれず前半から中盤まで、ことこまかに「エレホン人」の生活様式が語られている。
荷馬車よりも複雑な構造を有する機械を持たず、牧歌的ユートピアを思わせる世界「エレホン国」であるが、かつてはイギリスに匹敵するかあるいはそれ以上の技術力、科学力を有していた。そのような科学水準の後退は、「発明から271年を経過しない機械をすべて放逐する」という革命によるものであり、その実態が語られるにつれ、この物語がありがちなユートピア物語でないことが感じ取られてくる。
革命の先導者の持つ論拠は、以下の通りである。
人間の作り出した道具、機械がこん棒や手斧から、ネジ、歯車、やがては時計などの複雑な機構を持つものとなり、ついには蒸気機関の発明にいたった経緯は、人類の進化の歴史と共通点が多い。つまりは、バクテリアなどの単細胞生物から始まり、多細胞生物から脊椎動物へ、魚類からは虫類、ほ乳類、人類へと至った経緯が、「より単純なものから複雑なものへ」といった変化の構図において相似であると考えられる。したがって、現在の蒸気機関もやがてはさらに複雑な構造を持つにいたり、極限的には創造主たる人類の手を離れ、自己増殖、自己進化をはじめ、人類をおびやかす存在となると、革命の先導者はそう考えたのである。
これは単に、ハリウッド映画「ターミネーター」のように、高度に発展した人口知能を有するロボットが人類社会を滅亡においやるといったこととは根本的に異なり、ここで論じられている問題は、社会を大局的視点でみた場合のシステムに関するものである。
例えば、自動織機が機(はた)をおっている工場を例にとった場合、職工が自動織機を操作し、自動織機が織物を生産する。この自動織機をくみ上げたのは人間ではあるが、最終生産物である織物を作ったのは自動織機である。よってここに、単純な構図ながらも、人間ー機械混成系(システムの構成要素として、人間と機械がともにくみこまれている状態)による生産システムが生まれたこととなる。機械を動かすべく人間が働くということは、人間が機械を使用するのか、はたまた生産システム全体としてとらえた場合の機械に人間が使役されているのか、その関係性があやふやなものとなるばかりか、捉え方によっては、人間が、織物を生み出すための部品の一部と考えられなくもない。
これが自動織機の場合は、介在する機械の数も少なく構造も単純であり、自動織機を操作する職工からみても、自分つまり「人間」が織物を作っていると感じ取れるかもしれない。しかし、これが前述のバクテリアから人間にいたる進化のように、個々の機械そのものおよびシステム全体が、より複雑さを増し続けた場合、人間が機械を中心としたシステムの中の、構成要素のひとつであることを否定できない理由があるだろうか。
このような概念は、カール・マルクスが1867年(本書出版の5年前)資本論の中で、述べている。
「機械の進化、人間の隷属」という概念への危惧は、工業を主軸とした経済発展を続ける自国(イギリス)への社会風刺であるのだが、この本が書かれた十九世紀当時よりも現在においては、それをより理解することができ、その危惧は現実感をもってきている。

書名:Erewhon ≪英語≫(1872)
著者:Samuel Butler (1835-1902)

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