FIELD NOTES / 02
1980年代の土手に、本物の街頭紙芝居がいた
街頭紙芝居の全盛は、昭和20年代の後半です。テレビが「電気紙芝居」と呼ばれて家庭に入ると、紙芝居屋は消えていき、昭和40年代にはほぼいなくなりました。
ところが、私が小学生だった1980年代、江戸川区の新中川の土手には、毎週土曜日に紙芝居屋が来ていました。保存会の再現でも、学校の平和教育でもありません。拍子木で子どもを集め、菓子を売り、買わない子は立ち見という、商売としての紙芝居です。
母の実家が江戸川区の篠崎の近くにあり、私は毎週のようにそれを見ていました。以下は、その記憶の記録です。
来る人
- 業務用の自転車で来る。荷台に紙芝居を立てる木の枠があり、扉が開いて額縁になる。枠の土台はタンスのような引き出しになっていて、水飴やソースせんべいが入っている。
- 麦わら帽子に手ぬぐい。見た目は50〜60代。ダミ声。
- 拍子木を鳴らして子どもを集める。ちんちん鳴る鉦のようなものも使っていた。太鼓は無い。
- マイクは使わない。生の声。
- 母(昭和30年生まれ)が子どものころにも、同じ人が来ていたそうです。同じ土手を、30年近く回り続けていたことになります。
口上と話芸
「さあさあ、よってらっしゃいみてらっしゃい、お代はみてのお帰りだよ」
ほとんどの会話を七五調で回していました。アドリブまで七五調でした。寅さんの啖呵売と同じ、香具師の話芸です。紙芝居屋は、もともとテキヤと同じ系譜にいます。
クイズを出して、正解した子には景品(手持ちの菓子)をくれました。クイズのときには、いつも「川向うの子は頭がいい」と言っていました。子どもの競争心をあおる手口であると同時に、新中川の両岸を回っていた証拠でもあります。
話は続きもので、いいところで「続きはまた来週」になりました。
演目
- 黄金バット
- 狼少年
- 「少年剣士なんとか」のような剣戟もの
- 戦記もの。「爆弾三勇士」らしき演目もあった。
爆弾三勇士は、1932年の上海事変を題材にした、国策の物語です。紙芝居は戦時中、宣伝の媒体として使われ、戦後はその多くが処分されました。その系譜の演目が、1980年代の土手で、子ども相手の娯楽として現役で演じられていたことになります。
絵は手描きだったと思います。
品書き
- 水飴、あんず、すもも(10円くらい)
- ソースせんべい
- 一番高いのが50円。ソースせんべいがおままごとの器の形になっていて、器ごとに別のソースが入っているもの。
- 爪ぬき(型抜き)もやっていた。この呼び方は地域で違い、「型抜き」「かたぬき」とも呼ばれます。
菓子を買った子が前に座り、買わない子は後ろで立って見る。払ったかどうかが、座る場所で目に見えていました。
本業は飴売りで、紙芝居はタダの客寄せです。紙芝居屋が食べていけなくなったあと、そのまま駄菓子屋になった人が多かったのは、そのためです。
子どもだけの場所
集まる子は20人ほど。大人が見に来ているのは、一度も見たことがありません。完全に子どもだけの空間でした。
紙芝居が終わっても、おじさんは帰らずに、子どもとずっとしゃべっていました。
私が小学6年生(1990年前後)のころまでは、まだ来ていました。それ以降は私が行かなくなったので、いつまで来ていたのかは分かりません。
その後に分かったこと
2019年の東京新聞の記事に、江戸川区で自転車と拍子木を使い、昭和20年代の作品を演じ続けた紙芝居屋さんが「最後の1人」として紹介されています。2012年ごろまで現役だったそうです。活動していた地域、道具、演目、年齢が、私の記憶とよく合います。私が見ていたのは、おそらくこの方です(確かめる手段はありません)。
出典:東京新聞「東京すくすく」https://sukusuku.tokyo-np.co.jp/life/17553/
道具は、別の方に受け継がれて、今も江戸川区の路上で紙芝居が続いているそうです。ただ、戦記ものは受け継がれていません。禁止されたからではなく、今の路上で、それを娯楽として受け取る文脈が無くなったからだと思います。
紙芝居の絵は、九段下の昭和館などで見ることができます。でも、絵の向こうから、ダミ声の七五調が聞こえる人は、もうほとんどいません。紙芝居の本体は、絵ではなく語りのほうでした。そして、その語りは、どこにも記録されていません。
FIELD NOTES は、筆者が見聞きしたことの記録です。記憶にもとづいて書いているため、細部が事実と異なる場合があります。確かめられたことと、記憶や伝え聞きの部分は、できるだけ書き分けています。